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海外企業買収と与信判断

東芝 米WH買収

私がまだ業界最大手の信用調査会社で調査員をしていた頃、朝7時過ぎにはオフィスに出社している必要があった。簡単な朝食を済ませて、上司に読むように言われた日経新聞をポストから取り出し、電車に乗り込むのが毎日の日課だった。
2006年のその日の見出しは今でも忘れることができない。日本企業が行う最大規模の買収案件として報じられており、失われた20年からの脱却を示唆するような、なんとも心地よい興奮を覚えたものである。
しかし、その後この買収案件が、日本企業のM&A史上トップクラスの失敗例と評されるに至るのは、皆さまもご存じのとおりであろう。


投資とDDとステークホルダー

東芝が当時投じた約5,500億円は、決してお小遣い程度で済むような額ではない、極めて巨額な資金であった。2006年度の連結売上高は約6.3兆円、連結総資産約6.2兆円に対して、自己資本は1兆円にとどまっていた。
WHに対する投資により約3,500億円をのれんとして計上した結果、自己資本比率は2005年度の16.2%から、2006年度には12.7%まで低下。自己資本の3割以上を費やす危険な賭けであったと評価されている。

この投資資金の捻出に際しては、東芝の内部資金だけでなく、みずほ銀行・三井住友銀行・三菱UFJ銀行が組成したシンジケートローンが充てられた。また、米国のエンジニアリング企業The Shaw Groupや米政府の支援機構も関与していたと報じられている。

その後、既存の簿外債務が明るみに出る中、米当局から受注していた原子炉建設の費用が当初見積もりから倍増した影響などを受け、WHは2017年3月に連邦破産法(Chapter11)の適用を申請。最終的に2018年、カナダ系のブルックフィールド・コーポレーションに1ドルで売却するに至った。

ここで注目すべきは、東芝がなぜ自己資本の3割以上を投じる賭けに出たのか、という点である。ステークホルダーの顔ぶれや、受注案件の発注者、最終的な売却先までを見ると、東芝外部からの意向が色濃く反映されていた可能性も否定できない。


日鉄、100%子会社化

時は過ぎて2025年。愛読紙は日経から読売に変わったが、東芝・WH買収時と同じような興奮を覚える見出しが、新聞の一面に掲載されていた。ただ、2006年とは異なり、「サザエさん」のスポンサーを降板するほどのダメージを被った東芝の失敗がどうしても思い起こされてしまう。


日鉄と東芝の類似点

日鉄にとっても、U.S.スチールの買収は財務的に非常に重い判断である。約2.12兆円の投資額は、自己資本約5.9兆円の36%に相当し、危険水準とされる3割を超えている。

WHのケースとは異なり、簿外債務が存在するわけではないが、U.S.スチールは厚生年金や医療給付に関する多額の年金債務を抱えているとされている。また、環境規制への対応に必要な設備投資も膨大とされる。

ステークホルダーとしては、トランプ大統領をはじめとする米政府関係者の関与があり、米当局には拒否権付き株式も発行される。これは、既存の日鉄株主に対して合理的な説明を困難にするような、極めて政治色の強い構造である。今後、人員整理や合理化を進めようとした際に、米政府が拒否権を行使すれば、事業計画が頓挫する可能性もあり、東芝の二の舞となるリスクは否定できない。


与信判断のポイントはどこか?

M&A案件が大きく報じられるのは、その高揚感から株価上昇を招くような大規模案件に限られる。そのため、与信管理の現場では「まさかあの大企業が失敗するはずがない」という緩みが生じがちである。また、大企業であるがゆえに、損失が発生しても倒産までに一定の猶予があるため、緊急性のある回収リスクとは見なされにくい。

しかしこれが、政策金融公庫や国際協力銀行の支援を受けて、初めて海外企業を買収しようとする中堅企業であればどうだろうか。むろん、買収を仕掛ける企業側は豊富なリソースを用いてデューデリジェンスを行うだろうが、与信判断を担う側としては、そのDDの内容を鵜呑みにせず、自らのリサーチをもって潜在リスクの有無を精査する姿勢が求められる。


大規模M&Aは“勝ち”だけでなく“負け”のリスクも抱える

本稿で見てきたように、東芝–WH買収では自己資本の約30%、日鉄–U.S.スチールでは約36%を投じた大型投資が、のれん減損、レガシー債務、資本構造の歪み、規制対応、統合管理といった複合的なリスクを顕在化させた。

こうした大規模案件は、与信管理の現場でも十分な注意が求められる。特に、海外投資を促進したい日本政府の支援を受ける中堅企業によるM&Aでは、表面上のスキームの巧妙さや保証体制に惑わされず、本質的なリスクを見抜く目が必要である。

与信判断を行う皆さまには、以下のポイントをぜひチェックリストに加えていただきたい:

  • デューデリジェンスの報告書は、社内でも再検証を行うこと
  • M&A統合チームの体制やKPI(評価軸)を確認すること
  • 最悪シナリオ(売上減、為替変動)を想定した回収可能性分析を行うこと

大規模M&Aは企業の飛躍的成長を支える一方で、与信面では思わぬ負担となりえます。中村格付研究所では、M&A案件に特化したリスク評価フレームワークやシミュレーションツールをご提供しております。ぜひお気軽にご相談ください。

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