これは、私が信用調査員として働いていた頃に実際に経験した話です。

■ 下調べ
「先輩、倒産歴がある社長の新規調査に当たったんですけど、その会社、先輩が前に担当してたみたいで…」
——場所は六本木。
かつて“悪の巣窟”と呼ばれたこともあるビルの中に、設立まもない経営コンサル兼投資会社があった。
その代表、市松恵三(仮名)は、倒産歴と逮捕歴のある人物だった。
私は念のため、そのときの担当だった先輩に話を聞いてみた。
先輩:「あいつ、また表に出てきたか。……調査、気をつけろよ。」
それだけ。何も教えてくれない。
頭の中では「倒産歴」「逮捕歴」という言葉がぐるぐる回っていた。
——絶対、カタギの人じゃない。
この時点で、すでに嫌な予感しかしなかった。
■ 調査開始
怖くても、調査は任されたからにはやるしかない。
私の勤めていた会社では、「相手がどんな人物でも、必ず名刺を渡して直接会いに行け」が鉄則だった。
つまり、机上でビビっていても仕方ない。
さっそく電話をかける。
私:「信用調査会社の中村と申します。御社に信用状況の照会があり、取材に伺いたくご連絡差し上げました。」
市松:「あ、信用調査さん久しぶりー!そうだよねー、調査入るよねー。飯行こうよ!」
私:「いえ、少々多忙にしておりまして、まずは取材をお願いできれば。」
市松:「そっか。」
——やばい。
声のトーンが、これまでの“強面社長”の比じゃない。本物だ。
関連会社の登記も事前に洗い出し、資料は完璧に揃えた。
……さて、倒産歴と逮捕歴、どうやって切り出すか。
■ 取材当日
実は、そのビルにはプライベートで何度か来たことがある。
ハートランドビールのバーで浮いた思い出もあれば、展望台でロマンチックな夜景を眺めた記憶もある。
だが、その裏手にある「レジデンス棟」という建物は、そのとき初めて知った。
英国系高級車のディーラーの脇にあるエントランスから呼び出され、中へ。
——そこは、ワンフロア丸ごと応接ラウンジになっていた。
初対面の市松恵三。
肩幅が広くて、ちょい悪な雰囲気。何より、指が……。
名刺交換の際、それらが一瞬で目に飛び込んできた。
市松:「中村さん、ほら!“悪の巣窟ビル”の社長だよ!」
ほんとだ。
ビジネス誌でしか見たことのない人物が、お付きの人たちと一緒に目の前を通り過ぎていった。
——2時間の取材は終始“和やか”だった。
市松は、自分が会ってきた調査員たちの話(冒頭の先輩含む)、
どのレクサスで地方を飛ばしているか、
空手が得意で腕には自信があることを語り、
そして、出資先として某ビール醸造所や不動産企業の話もしてくれた。
資金の出どころは不明だったが、正直に語ってはいた。
……ただし、倒産歴と逮捕歴については聞けなかった。
でも、それでいい。直接聞くことが全てじゃない。
報告書の文中に“それとなく匂わせる”ことができればいいのだ。
■ 調査報告とクレーム
市松に聞いた話を元に、倒産歴や出資先の顔ぶれまで詳細にまとめた。
もちろん、依頼者に「注意すべき相手だ」と伝わるよう、魂を込めて書いた。
——しかし、最初のクレームは意外なところから来た。
部長:「中村君、この怪しい会社が出資してるって、君が書いた会社……俺が昔支店で世話になった社長たちの会社ばかりだぞ!?何調査してんだ!」
私:「すみません。ただ、登記上の代表も実際に市松恵三に変わっております。」
部長:「……え、本当か?」
(沈黙)
部長:「……ほんとだ!」
そこからは部長自身が裏付け調査を始め、最終的には警察にまで問い合わせていたらしい。
詳細は書かないが、調査の重みを感じた瞬間だった。
部長:「……オッケー。ごくろうさん。」
ようやく、報告書は依頼者の手に渡った。
どうか、取引判断を誤らないでほしい——そう願っていた。
■ 軟禁
数日後、一本の電話。
市松:「おぉ、中村か? お前、報告書に何書いた?今、俺の手元に来てるぞ。すぐ説明に来い。」
——あ、人生積んだ。
ご迷惑をおかけしました。
上司に相談したが…
上司:「骨は拾ってやるから、一人で行って。俺、忙しいから。」(ママ)
——行くしかない。
あのラウンジ。
初対面のときの和やかさは消え、市松は鬼の形相で座っていた。
まさに“デーン!”
深呼吸。
学生時代、国際協力を教えてくれた教授の言葉が脳裏に浮かぶ。
「現地で武装勢力と交渉することもあった。でも俺はJAICAの人間だ、国際協力の使命だと思えば鉄砲玉なんか当たる気がしない」
——そうだ。
「俺は信用調査会社の人間だ。反社のやりたい放題を止めるのが使命だ」
そう自分に言い聞かせながら、5時間に及ぶ質問攻めを交わし続けた。
市松:「……なんだ、強情な奴だな!今度、飯行こうよ!」
——行かない。絶対に行かない。
■ その後
報告書、どうして市松の手元に渡ったんだろう?
おそらく、依頼者が出資を迫られた中で、
断る理由として「信用調査会社がこう言ってるので……」と渡してしまったのだろう。
でも、それでいい。
私が軟禁されたことで、依頼者がまっとうな判断を下す助けになったのなら、本望だ。
——その後の市松は、派手だった。
出資、兼務、会長就任。
資金の出どころは依然として不明のまま、会社のホームページは「お知らせ」でにぎわっていた。
そして、ある日。
「株式上場のお知らせ」
えっ?
……俺の調査、間違ってた?
その数日後、NHKが報じた。
「市松恵三、逮捕」
——良かった。依頼者を、守れていた。
■ あとがき
信用調査という仕事は、紙の上で完結することはありません。
相手が誰であっても、現場に出て、空気を読み、覚悟を持って事実を積み上げる。
その意味で、これは私の中でも、忘れられない一件です。